JR3KBUの足跡

1960

兵庫県の日本海側、城崎町にて生まれる。

1961


腸重積症に罹るが「風邪」と診断され死にかける。
緊急手術。盲腸もついでに取って貰った(らしい)。

1964



南隣の豊岡市に引っ越す。
(2005年、城崎町は豊岡市と合併して豊岡市になりました。)
豊岡市と言えば、「コウノトリ」で有名ですね。

1965






虫捕りに行こうと、ブロック塀の陰から道路に飛び出し、
車にはねられる。右足脛骨と腓骨(むこうずねの太い方と
細い方)を骨折。
病院から抜け出してウルトラQを見る。病院と家は道路を
隔てて隣。
豆電球と乾電池で点灯実験。

1967


小学校入学
プラモデル作りに励む。

1969


















小学3年生になった時、同級生が学研の電子回路学習セット、
「マイキット20」を持って家に遊びに来る。自分も欲しくなったが、
高いので、お小遣いで何とか部品が買えるゲルマニウムラジオを作る
ことにする。
 TRIOの並四コイル、
 ALPSのエアーバリコン、
 ゲルマニウムダイオードは1N60でもSD46でもなく、松下のOA90。
これらをカマボコ板に載せて組み立てて無事、完成。
NHKの放送しか聞こえなかったが感動。
「子供の科学」「模型とラジオ」「ラジオの製作」「初歩のラジオ」を
愛読。ラ製は'69から、初ラは'70からの数年分を今でも持っている。

『マイキット20』について、
CBA/JH4CBA/伊藤 温司様の【電気電子工作の部屋】に
詳細な紹介がありました。ここです。
1968年製とのことで時期的にも合っています。
ガルバノメーター、懐かしいなぁ。

このページの「太陽測光用人工衛星テレメーター」に見覚えが
あります。説明書通りに配線したのですが、そもそも何をするもの
かわからず途方に暮れたのでした。


1971










5年生の秋に電話級アマチュア無線技士の国家試験を受験。

講習会に通って免許を取得する方法もあったが、講習会の最終試験は
「記述式」で、できなさそうだったし、講習時間が40時間もあって
たいへんだと思ったのだ。

兵庫県の日本海側の豊岡市から、受験会場の大阪市まで遠かったが
親戚が西宮に居たのでそこに泊まった。

合格の手応えはあったのだが、不合格だった。

1972





















6年生の春休み、再度、国家試験を受験。合格

6月に従事者免許を貰ったものの、自作機で開局しよう
などと大それたことを考えてしまってなかなか局免の申請が
できず。夏休みに、まずは受信機と、3.5〜10MHzが受信できる
IF=455kHzのSSB受信機を作って、それにクリコンを付けて...
などと計画。バリコンやスプレッドバリコンをアルミシャーシに
付けて糸かけダイヤルメカ、Sメータ用の丸い穴をハンドドリルで
小穴を開けてニッパで穴をつないで、ヤスリがけ。
ユニット毎の基板になっていてAFアンプ部や電源部ぐらいまでは
作ったけど...(オールソリッドステート)

11月頃、ハンディ機を買ってもらえることになり、やっと局免申請。
ベルテックのW3470という、1クリスタルでチャンネル増設できる
リグを買ってもらおうと思う。VFOが作り易いかな、と思ったのだ。
小学校を卒業したら姫路に引っ越すことに決まっていたので姫路の
駅前にあった星電社に行くと、TR-2200が、6chから12chになるよ、
と言われ、あっさりそれに。50MHzのTR-1200や、CQ-P6300、ECHO-6
などだいぶ悩んだのだが自転車モービルを2mでしようと
思ったのだった。

1973
























年が開けて1月にコールサインが届く。JR3KBU。
5/8λのモービルホイップを2階の窓から斜めに出して運用開始。
12V1Aの安定化電源はリグが来る前から自作していた。
この頃からCQ誌を読み始める。
(今でも当時の本を持っている。−−−物持ちがいいのだ)

春 姫路に引っ越し。中学校入学。
テレビの屋根馬にCDCのローテータ、マスプロの8エレ八木。
あまりうまくステーが張れず、すぐに倒れてしまった。

私の父はこうした電気や工作に弱く、全て自分で考えて
自分でやらねばならなかった。いわゆる親子ハムでは
なかったのだ。(知り合いの高校生ハムが親父さんと一緒に
アンテナを上げているのがちょっと羨ましかった。)

自転車の荷台にアルミ板を取り付け、M型レセプタ
クルを固定。そこにアローライン(かさ型アンテナ)を
取り付ける。解体屋でオートバイ用バッテリを買ってきて、
自転車モービルをした。車なら10分で登れる広峰山に、
自転車を押して登ったり。5エレ八木で5エリアとQSO。
あとロープウェイで書写山(370m)に登ったり。
バッテリー液を部屋の中でこぼして畳がボロボロに。
えらい目に会った。

1974







中2ぐらいから免許を取り出した友達と共にアマチュア無線同好会を
中学校に創部しようとしたが、何のかんの理由を付けられ頓挫。
免許持ちの顧問になる教師が居なかったせいか。一応、担任の理科の
先生を通して職員会議にかけてもらったのだが。
TS-520を買ってもらいHFデビュー。21MHzの竹竿GP。
7エリアとQSOできて感激。

1975


中3
QRT。

1976





高1
岡山の私立高に入学。でも12月に退学。
8月に中学時代、アマ無線を一緒にやっていた友達に偶然本屋で会い、
バイク(ミニトレ80)の後ろに乗せてもらう。
「すっげー、おもしれー、おいらも免許取るぞー」、と突然バイク少年になった。

1977



















2月 原付免許取得。CB50JXを友達から買う。公立高に
合格後の3月、自動車とぶつかって左足首骨折、入院。
入学式に出られず。
4月の終わり頃、退院、ようやく高校に通い始める。
6月頃、中型自動二輪教習に通うためハスラー50(中古)を
買う。教習車ではYAMAHA RX350(RDの前身。2サイクル2気筒)に
乗れてとっても嬉しい。
7月 高校の終業式が教習所の卒業検定とかぶって、当然(?)だが、
終業式をサボって教習所に行く。
無事合格。
8月 中型免許は取ったもののバイクを買うお金はないので、
ハスラー50で無線仲間とツーリング。対向車が追い越しのため
はみ出て来て接触。右足小指骨折。バイク御法度になる。

TR-7500を買う。

秋 同じ姫路市内だが高校の近くに引っ越し。
冬 TK-80E、TK-80BS買う。アセンブラがさっぱりわからず。
BASICでスタートレックもどきをつくる。

1978

















高2
TS-820を買う。21MHzの4エレ八木をルーフタワーに。
トランスバータTV-502で、2m SSB DXをしようと。タニグチ
エンジニアリングのスイスクワッドスタック。
あまり芳しくなかった。

6月 同級生からRD50を3万円で買う。

夏 酒屋で時給500円で40日間アルバイトして15万円ぐらい稼ぐ。
RD50はピカピカに磨いてバイク屋に3万円で売る。
別の友達(前にミニトレ80に乗っていた奴)からCB250Tを
買う。しかし、親に「返して来い!」と。

QRT。免許切れ。

秋 でもやっぱりバイクが欲しいのでKM90を中古で買う。

1979






























高3
バイク改造に傾倒。姫路城の近くにエンジンをチューンしてくれる
「姫路オートバイ」というバイク屋があって、そこに入り浸る。
ここはモンキーの50ccのエンジンを122ccまでスープアップ
(ボアアップ+ストロークアップ)したりしていた。(バイク雑誌にも
掲載されていた。)
私のKM90もマフラーは姫路オートバイの特製、圧縮率アップ、
ポート研磨、ロータリーディスクバルブのタイミング変更、より早い
吸排気タイミングのためにシリンダーを3mm持ち上げる(シリンダー
とクランクケースの間にアルミ板のスペーサを挿入)というような
エンジンチューンが施された。

KM90のキャブはクランクケースの中にあってダクトを介してエア
クリーナに繋がっているのだが、これも吸気効率アップのため
クランクケースに5cmぐらいの穴を開け、金網が張ってあった。
横に穴が開いているので、土砂降りの雨の日はヤバい状態だった。
(キャブの吸気口から雨水が侵入しそう。)

バイク屋から中古の(エンジンの無い)KH125改造車を格安で売って
もらいKM90の外装を自分で改造。フロントをディスクブレーキに
したかったので、フロントフォーク・三つ又などを移植。
今から思えばかなり危険な改造だった。ホイールの幅が合わず、
ワッシャーを何枚か入れて誤魔化していた。ハンドルストッパも
効かなくなっていたし。

あとフロントカウル&バックステップ。バックステップにするとキック
できなくなり、押しがけ専用になってしまった。

いったんエンジンを降ろし、フレームの再塗装もした。

1980





そんなことばっかりしているので浪人。京都市市内で下宿。
浪人中にKH250を買うも、盗難に。3ヶ月しか乗れなかった。
ミニトレ80にスケールダウン。

Z80のアセンブラがようやく理解できた。

1981























大学に入る。ワンルームに引っ越し。GS400を
中古で買う。PC-8001を高校時代の友人から買う。


東北へ8泊9日、野宿ツーリング。最初は2週間の予定だったが、
毎日400km以上走るのでだいぶ早く帰ってきてしまった。
青森県の夏泊半島でパンク。修理道具は持っていたが
チューブが裂けて修理不能。草をつめて10km以上ノロノロ運転して
青森市内に戻り、チューブ購入。バイク屋のおっちゃんが
ドーナツ状になった草を見て驚いていた。


物足りないので、3泊4日で紀伊半島→知多半島ツーリング。
友達がXL250Sに乗り始める。GS400では一緒に林道に行けないので
(行っても置いてきぼりにされる)、GS400は大学のツレに売り、
KL250に乗り換える。モトクロスごっこに夢中。
XLの方がエンジンパワーがあり、KL300に。でも加速は同じぐらいに
しかならなかった。サスは圧倒的に良かったんだけど。

Z80ハンドアセンブルをよくやった。PC-8001のバススロットに
自作のA/Dコンバータを取り付ける。何となくコンピュータの
ハードウェアが理解できてきた。

1982







富士山へ登りに行く(バイクで)。KLは振動面でツーリング向きでないので、
初めて新車を買うことに。XL250R Roger De Coster Special。

秋 またもや富士山。友人の大学寮に転がり込んで、3週間ぐらい
居座った。途中、アルバイトしながら富士山の周りを走り回った。

1983















この頃、専門学校の情報処理科の非常勤講師に。SANYOのMBC-250と
いうCP/Mマシン(Z80 4MHz、当時珍しい2DDのFDD付き)が
たくさん置いてあり、非常に自分自身の勉強になった。
今の仕事ができるのはここのおかげだ。
CP/M上で走るBASICで逆アセンブラを作ったりした。
PC-8001にフロッピーディスクドライブを取り付ける。(14万円もした)


PC-8001に限界を感じ、PC-8801mkIIを買おうと思ったが
PC-9801Fが発売されると聞いて待った末に買った。
8086のハンドアセンブルを始める。世間で悪評のセグメントも、
16ビットCPUなんだから複雑なのはしょうがない、と思っていた。
(別に苦にならなかった。)

冬 自動二輪免許の「中型限定」の解除に行き始める。

1984



















































春 限定解除に2回失敗し、ただ何となく試験を受けていても
合格しないと悟る。1時間\4000払って試験車と同じZ2に乗って
練習することに。
4回目 「こりゃ、いける」と思ったのだが一本橋で落下。
一本橋さえできれば合格すると確信し、そればっかり練習。
私は「バイク見知り」する方なので、自分のXL250だと規定の10秒を
楽々クリアできるのだが、Z2だと8秒ぐらい。
それでも1時間練習すると12秒ぐらいになる。ところが、、、
試験挑戦3回目ぐらいから試験車の入れ替えで、Z2だけでなく
CB750FCも試験車に加わる。Z2で12秒いけるようになっても
CBだとまた8秒。CBで1時間練習すると今度はZ2では8秒。
うー、確率5割だー。

6月 5回目の試験。前日、CBで1時間練習。今日はCBでないと
だめだ! 順番待ちしていると、今日の試験車はZ2とCBと1台ずつ。
(日によってZ2が2台の時や、CBが2台の時がある。)
わー、順番から考えて、私はZ2だー!
「今日は落ちる」
ところが... 私の前の前のヤツがどんくさくて、試験中止
(そこまでで終わり)となっているのにスピーカの声が聞こえないらしく
いつまでもウロウロ試験コースを走っている。そのせいで、
順番が1人分ズレたのだ。私にはCBが当たった。
「ラッキー!!!」
途中、1回エンストしたけど(CBは熱ダレし易く、試験のように
ノロノロ運転しているとオーバーヒート気味になりすぐにエンストする)、
何とか1段階めはパス。(当時の京都の試験は1段階、2段階と分かれてて、
1段階めは外周回ったり・クランク・S字・坂道発進。
1段階めに合格すると、2段階めに進めて、Uターン・急制動・
波状路・1本橋をするのだ。)
1本橋以外はモトクロスごっこをしていたので楽勝。最後は一本橋。
まあ、12秒ぐらいか。2段階めの試験が終わると、合格すると上の司令塔(?)に
呼ばれる。バイクから降りると「免許証を持って上に来なさい」
「やったー!」
限定解除は免許証の裏にハンコで「限定解除」と押すだけ
のものだ。

京都の限定解除試験は、予約制で、落ちるたびに、予約を
しなければならない。冬で1ヵ月弱、それ以外は1ヵ月半ぐらい
先でないと次の試験が受けられない。1983年の12月から、
5回目の受験まで半年かかった。

限定解除するまでは「限定解除してもお金がないからナナハンは
当分先だよなー」と思っていたのだが、試験場の帰り道、片っ端から
バイク屋に寄って、中古の安いナナハンを物色。XL250Rを買った店では
GPZ750R(出たばっかり)の程度のいい中古を勧められるが70万円!
「おいおい、そんな金にゃーよ」 でも試乗はさせて貰った。
やっぱりいいなぁ。
次の日、別の店で、CB750FB赤が40万円であったのでそれを
買う。頭金無しの24回払いのローンだったかなー。


1985








































































CB750FBでは、46km/h速度超過・25km/h速度超過・人身事故
(2人乗りしててタクシーと衝突。後ろに乗っていた友達が
鎖骨骨折)と1年以内に3回も赤キップをもらい、「免許取り消し」の
通知がきた。前歴2回だと反則4点で取り消し対象になる。
鎖骨骨折の診断書は「全治1ヵ月」とすると重傷事故で6点に
なるので「4週間の加療を要す」にしてもらった。これだと
一応軽傷ということで4点。それでも取り消しの対象なんだけど。

 京都府警察本部の上階にある「免許取り消しに関する聴聞会」
には背広を着て、鎖骨骨折した友達の嘆願書(寛大な処置を
お願いします、という内容)を携えて、朝一番に行く。大きな会場に
長椅子が並べられて100人ぐらいが来ていた。
一番前に3個ぐらい机が置いてあって、名前を呼ばれると、
ひとりずつそこに行く。私以外にお巡りさん、担当官(検察官?)、
立会人の3人が居て、まずお巡りさんが状況を説明。次に言
いたいことがあれば聞いてくれる。私は嘆願書を見せ、充分
に反省している旨、口頭で述べると、「午後1時にもう一度、
会場に戻って来るように」と言われる。

 近くの喫茶店で時間をつぶし、会場に戻る。まだ聴聞中で
あった。私は一番前に座っていたので、聴聞の内容が聞こえる。
「あんた、そりゃ、あかんでしょう?」という人もいっぱいた。
酒気帯びを繰り返し、何度も処分されているのに、処分中に運転して
(無免許になる)また酒気帯びで人身事故。
反則点数が30数点とか。

 全員の聴聞が終わると一旦、係官は退出、私は
「もー、ダメだわなー」と思っていた。

さて、1時になると再び係官が戻って来る。
「これから名前を呼ぶ人は免許証を持って前に来て下さい。」と。
呼ばれて前に行くと処分内容を宣言され、免許の返納申請書
(届出書?)に署名・押印して免許証と共に提出。
それで取り消し処分が執行される。

 私は朝一番で来ているので、聴聞も一番最初で、てっきり
すぐに名前を呼ばれるのだと思っていたら、なかなか呼ばれ
ない。

他の人が次々に名前を呼ばれて、「欠格期間は2年です。この
期間は免許を取得できません」などと言われている。
免許証を返納したらゾロゾロ会場から出て行く。

 100人ぐらい居たうち、残り7〜8人ぐらいになった時、
もう名前が呼ばれなくなる。「何かなー?」と思っていると
一番前のテーブルに書類が裏向きにされて置かれる。
「今から名前を呼ぶ人はその順番で左からテーブルにつくように」
私も呼ばれて席につく。裏返っている書類を、目を凝らして
反対側から文字を読むと「免許の効力の停止〜」とかが読める。
「もしかして???」

 どうも頭上から蜘蛛の糸が垂れてきたよう。私のように
免許取り消し基準にぎりぎり達した者には、(他にも条件があ
るのだろうが)情状酌量があるようだ。取り消し処分では
なく、停止処分だったのだ!「180日の停止!」 
おー、助かった。あんなに苦労して限定解除免許がぎりぎりで
助かった。免許は預けることになったが、また返して貰えるのだ。

 7〜8人でエレベータへ歩く道すがら、見知らぬ同士みん
なで「あー、良かったねー」と話しながら取り消し会場を
去って行くのであった。

 その後、免停講習を3日も受けて、免停期間を100日間
に短縮、(80日間短縮)再びバイクに乗ることができるよ
うになった。100日間の免停中は、非常勤講師をしている
学校までバスと電車で通っていたが、その間、カーニハン&
リッチーの「C言語」を繰り返し読んだ。

 コールサインの再割当が始まる、というのをムカシの無線
仲間に聞いたので、IC-2Nで再開局。CQ出してもじぇんじぇん
相手にされず。業務無線ワッチばかりする。


1986







FA・LA関係の会社で働き始める(非常勤講師とかけ持ち)。
6809アセンブリ言語でステッピングモータを回すのが最初の仕事。
固定小数点8桁演算とかがあって、オブジェクトで24kbytes。
その後、Z80や630x、V25/55、H8など組み込み系やPC-9801で
制御ソフトをつくる。

1987

CB750FBからGSX1100S(KATANA)に乗り換える。

1988









秋 
 KATANAで信号待ちしていたら横にXR600が2台並び、
ドルルーンと加速して行った。加速だけならKATANAの方が
断然速いけど、そのトルク感が良さげに見えたので、私も
欲しくなった。XRは逆輸入車で高くて買えないのでKL600Rを
中古で買う。
これはエンジンは今まで(2018年現在)で最高のお気に入りの
特性だったが、トータルで見ると、KAWASAKI車特有の出来の悪さも
目立った。しょっちゅういろんな所が壊れるのだ。

1989






3月 結婚。 KATANAを売る。
このままデカい排気量のバイクに乗っていると、そのうち命を
落としそうな気がしたのだった。KL600で充分気持ちいい、ということも
あった。
まあ、お金も無かったし。
城陽市に転居。

1990





























































1月
 パケット通信が面白いらしい、という話を聞き、私もやって
みようかな、とCQ誌を久しぶりに買う。そのCQ誌の記事に
「4月から電信級が第三級アマチュア無線技士という資格になり、
出力電力は25WまでOK。3月までなら電話級から電信級への
移行は1分間のモールス受信だけ(学科無し)でOK」と。

おー、電信級を取ろう! パケット通信のことはすっかり忘れて、
中学生の時に、A,B,Cの3文字まで覚えただけで挫折した
モールスを覚え始める。PCで練習プログラムをつくり、まじめに
毎日欠かさず30日間練習した。

3月
 電信級最後の国試。


とととと とつーと とととと とつーと つーとととつー
とと とつーとと とつーとと 』

"ILL" ときたら "ILLEGAL" でしょう。次は E (と)だね、
と思ったら『ととつー』 えー、なんでー、もうパニック状態。
後で考えたら "ILLUMINATION" だったみたい。
日頃、コンピュータから「ILLEGAL なんたら」って怒られて
いるからか。
やばー、あかんかなー、と思っていたら『合格』通知。
良かったー。
早速、18MHzと25W免許をもらう。

8月
 TS-830買う。テレビアンテナの屋根馬に、竹竿を3mぐらい
くくりつけて、18/21/28MHzの3バンドダイポール。BY(中国)
がガンガン入る。「珍しー、中国やー」 後で知ったのだが
中国って全然珍しくなかったのね。私が中学・高校生の頃は
めちゃ珍局やったのに。

 KL600R、異音と共にエンジンがお亡くなりになった。17万円
で買ったのにエンジン修理に10万円以上かかると。やむなく廃
車。ムカシ、高くて買えなかったGPZ750Rを40万円で買う。
家内を乗せて島根県までツーリング。1日500km以上走る。

8月末
 家内、妊娠。お金が必要になったのでGPZを売る。売り値で
買い戻してくれたバイク屋(Bike Shop B&S 宇治市)に感謝。

10月
 電信級に合格した勢いで第二級アマチュア無線技士を受験。
合格。
受験勉強でインピーダンスのことがよくわかって有意義だった。

11月
 バイクの免許しか持っていなかったのだが、さすがに
子供ができたら、3人いっしょにバイクに乗るわけにはいかない
ので渋々、クルマの免許を取りに教習所へ行くことにした。

勤めていた会社の社長からFJ1100を格安で譲ってもらう。
こりゃ、速いわ。

12月末
 普通免許取得 同僚からHONDA City Turboを3万円で買う。


1991











3月
 4月11日の予定が早まって、娘誕生。娘を膝に乗せて14MHz
で国内ラグチュウばかりしていた。

11月
 和束町に家を買う。イナカ道でFJ1100は辛いのでXL Degree
に乗り換える。でも250ccはパワー不足。すぐに飽きて、NX650
ドミネータに乗り換えた。

 自作と無線三昧。

1995

冬 ドミネータ車検切れ。あまりバイクに乗らなくなったので売却。

1996





4月
 和文の試験が無くなった、最初の第一級アマチュア無線技士
 国家試験受験。科目合格を目指していたのだが普通に合格。

8月
 姫路へ引っ越し(転職)。

1997













 しばらく乗っていなかったバイクをまた買う。ビッグトレールを
探したが、手頃な値段のものがない。50万円ぐらい出せば
あるんだけどね。SRX600とかロードバイクも候補にしたのだけど、
やはり高い。

結局、大阪の人から個人売買でGB500。
車検切れだったので仮ナンバー付けて、初めてのユーザー車検。
特に問題なく終了。
ヘッドライトの光軸の検査は、検査官のおっちゃんの腹に光を当てて、
HIGH/LOWを切り換えておしまい。そんなんでいいんかい?

1999


春 スペアナ購入。ディジタル表示のMS2601Bが20万円とはお買い得。
夏 GB500車検切れ。

2000








10月
 1年以上放置していたGB500をまた仮ナンバー付けて車検場へ。
(2度目のユーザー車検)姫路の車検場の場所が移転してて
すごく近代的に。光軸検査も機械で。駄目だー、と思っていたが1回で
パス。偶然だ。

11月 宇治へ引っ越し。(転職)

2001






1月 行きつけのバイク屋B&Sで、XR650Lを売りたいお客さんがいると。
GB500を売っぱらって、XR650L購入。基本的に同じエンジンだけど3割
排気量が大きいし輸出仕様なのでパワー感は全然XRの方がすごい。
殺人的にシート高が高く、片足の爪先しか届かない。リアタイヤは3ヵ月
(1500km)しか保たない。

2002














10月 宇治で65坪の土地付き中古住宅を買う。
独身時代はワンルーム、
結婚して、
   借家(城陽市 3K)
   持家(和束町 5DK)
   借家(姫路市 3LDK)
   アパート(宇治市 3DK)
と、和束町で広くなってからだんだんと部屋数が減って手狭になって
きていたのだが、今度の家は 5LDK と申し分ない広さだ。
庭も車が4台は置けそうなぐらいあるしね。(さすがにそんなに車の
駐車スペースはいらないので、半分はガーデニング用スペースにした。)

11月 クランクアップタワー建柱。ガーデニングに目覚める。

2003



4月 4ヵ月かかって幅3.3m、奥行き50cm、高さ70cmのレンガの花壇完成。
5月 飛び石完成。 コニファーを2本植樹。

2004


4月 レンガの立水栓製作。
5月 コニファーの周りをレンガで囲む。

2006
7月 DR650SEを新車で買う。
2007
3月 VX800を手に入れる。
2014
2月 DR-Z400Sを手に入れる。



雑誌投稿の記録
CQ誌













・"TS-830用外部DDS VFOの製作" 1995(08)
 −−− TTL ICで組んだDDSユニットをAKI-80でコントロールするもの

・"汎用性と200W対応を考慮したオートアンテナチューナーの製作", 1997(05)
 −−− リレー制御のLCネットワークをAKI-80でコントロールするもの

・"アマチュア無線家のためのワンチップマイコン「AVR」入門" 2001(11)
・"アマチュアのためのAVR入門(第2回)" 2002(2)
・"アマチュアのためのAVR入門(第3回)" 2002(5)
・"アマチュアのためのAVR入門(第4回)" 2002(7)
・"アマチュアのためのAVR入門(第5回)" 2002(9)
・"AVR入門第6回 タイマ割込" 2003(2)
・"AVR入門 最終回 全体のまとめとEEPROMの使い方" 2003(4)










・"PC9801用シリアル・インターフェースの製作とMPSCの使い方,
 μPD72001を使い最高76.8kbpsで2ポート" 1997(2)

・"超シンプルなGP-IB/シリアル変換アダプタの製作,
 スペアナの観測画面をパソコンで取り込もう" 2001(2)
 −−− GPIB出力を20ピンのAVR(AT90S1200)で受信して、
     PCへシリアル出力するもの。

モービル
ハム



・"3.5/7MHz出力5W 現代風にアレンジしたレトロQRP CW送信機" 1995(5)
 −−−真空管 6BA6・6AQ5 を用いた送信機。トロイダルコアや
    カソードキーイング用に POWER MOS FET を使用している。